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  • 2009.01.17 Saturday
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孤独の地獄

 8日、秋葉原で起こった無差別殺人事件、犯人自身が携帯サイトの掲示板に書き込んだ言葉が注目を集めています。警察は犯行の計画性を裏付けるものとして重視しているそうだし、テレビでコメントする犯罪心理学者は自己顕示欲の発露だといい、多くの人がその冷酷さ、異常さを話題にしています。

 それらの感想や解釈を敢えて否定するものではありませんが、それでもこの書き込みの中に犯人の悲鳴が聞こえるようにも私には思えるのです。あの青年も人並みに弱い人間です。あのような言葉を書き連ねることで自分の退路を断つ結果になったのではないでしょうか。

 危険な言葉の独り言はいけません。相手がいれば、その反応で自分の心が修正できる。過去に思い出がなく未来に希望のない現在の孤独は地獄でしょう。

 ならばせめて、誰も聞いていないところでも、ひとりでもいい、歌いましょう。例えばですよ…

  そやけん/手紙くれんね 信介しゃん/いつかどこかで 逢えるけん/ 
  織江も大人に なりました
       (五木寛之作詞、山崎ハコ作曲「織江の唄」から)

ミツバチに襲われた市民マラソン

 今日の午前、佐賀市の市民マラソンがミツバチの大群に襲われ、32人が救急車で病院に運ばれ手当て受けたそうです。私は、7時のNHKニュースでこれを見てびっくりしました。この出来事に驚いたのではなく、NHKがこれを全国ニュースで大きく取り上げたことに驚いたのです。
 20世紀前半の田舎に生まれ育った私たちにとっては、ミツバチに刺される程度のことはまあ、日常茶飯事。顔でも手でも派手に腫れ上がって、少々痛みはしますが、大事はありません。2、3日のガマンで治ります。こんな出来事が全国ニュースになるとは想像の範囲外でした。日本の社会も変わったものだなあとの感慨ひとしおです。
 念のため、報道各社のサイトを開いてみますと、テレ朝、フジ、日テレ各局、それに新聞では、朝日、読売、毎日、産経、東京、中日など、日経以外は私の見たところ全部が取り上げていました。
 今の日本では、このニュースを取り上げるのがいわば「常識」なんでしょうねぇ。しかし、私は思うのですが、今の日本人のこの「常識」は、地球上の人間の大多数から見れば共感は得られず、むしろ「日本人はヘンだ」となるのではないでしょうか。

与謝野馨氏の見識

 与謝野馨氏といえば安倍内閣(辞任時)の官房長官、小泉・安倍内閣で重要な働きをした政治家です。私はこの両内閣にプラスの評価はしていないのですが、それでも、今回の薬害肝炎問題に関しての与野党の政治家たちの発言の中で、私がメディアを通じて見聞した限りでは、与謝野氏のそれが唯一まともなものでした。
 
 「自民党の与謝野馨・前官房長官は21日、TBSのテレビ番組の収録で、薬害C型肝炎集団訴訟の和解協議について、「議員立法をしてでも(患者を)救済するくらいの気迫がないといけない。法的責任の有無で判断するのはたやすいが、そこを乗り越えたところに政治の役割がある」と述べ、国が提示した修正案をさらに見直す必要があるとの考えを示した」(21日付読売新聞Web版)

 これと対照的なのが、町村信孝現官房長官の発言です。彼は和解協議にあたって原告団が強く求める「政治決断」を回避した「弁明」として、20日の記者会見で次のように述べました。

 「三権分立があるわけだから、司法の判断をないがしろにして考えることはできない…
」(21日付朝日新聞)

 大阪高裁が和解案で示した枠内でしか考えられないというわけです。この人、「三権分立」の意味がおわかりなんでしょうかね。

 国家権力はしばしば強くなりすぎて人民の権利を侵害する危険がある。そこで国家権力を抑制する装置として「三権分立」が考え出された。この制度の核心は「司法権の独立」である。私はこのように理解しています。現代の世界をみても、民主主義の確立していない国家では、どこでも実態として司法権の独立は存在しません。それに反して司法府を「隠れ蓑」として使うのは非民主主義政権の常套手段です。

 三権分立とは、まずなによりも、司法権の独立を尊重すること、すなわち政治が司法府へ影響を及ぼすことのないようにすることです。政治が自ら果たさなければならない責任を放棄して、それを司法に押し付けることではありません。

 薬害肝炎訴訟にせよ、中国残留孤児訴訟にせよ、ハンセン病訴訟にせよ、国を相手取った民事訴訟は、なぜ起こされたのでしょうか。時間とのたたかいの渦中にある原告団の人たちが、気の遠くなるような時間と経費のかかる裁判を最初から望んで始めたわけではありません。行政や政治が訴えを「聞く耳」を持たないから、最後の手段として裁判に訴えたのです。裁判が始まると被告の国側は、道義や道理は二の次、訴訟の勝利に全力をあげます。

 世論の高まりの中で「政治の責任」が明らかにされてきてはじめて、政府側に控訴断念とか和解とかの「政治決断」が出てきたのです。

 責任は内閣と国会の両方にあります。今の社会には現行法規だけでは国民の権利を守りきれない問題がたくさんあります。立法府の怠慢はハンセン病訴訟の判決でも指摘されたとおりです。

 与謝野氏の言っているように、政府と国会が協力して努力すれば今回も和解成立の可能性はあるように思います。

 いわゆる「線引き問題」は、これを一般論にまで拡大して、将来発生するかもしれぬすべての薬害を国の責任と解釈するなら、それは妥協困難な対立になってしまいますが、それは極論でしょう。ここは「薬害肝炎」に限定して考えるのが現実的なのではないでしょうか。

吉兆は変わった。時代が変わった

 「吉兆」と私の唯一の接点は「暮らしの手帖」でした。1960年代のころ、私は花森安治さん編集のこの季刊誌を愛読し、炊飯器や石油ストーブなどの商品だけについてではなく、育児や医療の先端的知識をいろいろ仕入れていました。この雑誌に「吉兆」主人、湯木貞一さんのエッセイが連載されていました。食にこだわりのない私はさっと読み流していただけでしたが、それでも、この人が本物の料理人であることは認識できていました。

 当時、高度成長期の日本の社会では、各界でモノをつくる人が誇りを持って働き、それなりに成功し敬意を払われてもいました。戦後の日本を象徴する企業といえばソニーとホンダ。それぞれに、技術者である井深大さんと本田宗一郎さんが起業し、番頭役の盛田明夫さんと藤沢武夫さんが経営的にそれを支えている会社として知られていました。あのころは、どちらかといえば、脚光を浴びているのは技術者で、経営者は「縁の下の力持ち」的存在でした。名医の病院や立派な教育者の学校などが世の支持を集めている時代でした。

 それが変わったのです。テレビに登場する「船場吉兆」の若い取締役は湯木貞一さんのお孫さんでしょうか、どう見ても料理人には見えません。「職人」の匂いは全くなく「生まれついてのエリート経営者」という感じです。こういう人が「老舗」を仕切る時代なのです。今や、サバイバルゲームに巻き込まれた各種企業体で権限を握るのはマネージメント部門です。そして、マネージメントにとっての第一の課題は「市場の評価」すなわち「収益の最大化」です。経営者からみて、技術者はパートナーではなく取替えのきく使用人に過ぎません。

 いい仕事をすれば生き残れる、とはならないところが今の時代の辛いところです。かと言って、昔が戻って来るわけではないし。吉兆や赤福を非難しただけでは何の解決にもなりせん。単純・極端はいけません。せめて複眼的思考を心がけたいものです。

“もっと苛めろ”の時代

 先日、なんとなく「徹子の部屋」を観ていたら女優のあき竹城さんが出ていました。趣味の話や仕事の話、いろいろ出ていた中で私が「へぇッー!」と思ったのは、この9月まで彼女が出演していたNHKの朝ドラ「どんど晴れ」での体験談でした。彼女は盛岡の老舗旅館の仲居頭、そこで女将修業をするヒロインのきびしい指導係として、時には辛く当たるという「敵役」でした。
 以前なら、こういう役を演じた時には、「何故、そんなに苛めるんだ」「もう、やめろ」「やめさせろ」という抗議の電話や手紙がテレビ局などに殺到したというのです。ところが今回は様子が違った。ほとんどが「もっとやれ」「なまぬるい」「徹底的にやれ」という声だったというのです。
 あき竹城さんも黒柳徹子さんも特にコメントは加えずに、淡々とこの事実を紹介されただけでしたが、印象は強烈でした。「時代は、そこまで変わっているのか」「切ない時代になったなぁ」ということです。

安倍晋三首相の辞意表明

 昼食後、テレビをつけたままにしていたら、突然「速報」が入りました。「安倍首相が自民党幹部に辞意を伝えた」と。これにはびっくりでした。
 感想1.これは日本の恥さらしだ。世界の物笑いになるだろう。
 感想2.安倍晋三氏個人がこの程度の器だということはあるが、そのような人間を圧倒的多数で総裁に選出した自民党はいったいどうなっているのだ。特に小泉純一郎前首相の政治家としての責任は免れない。
 感想3.少し前に「たけしのTVタックル」かで見た気がするが、朝青龍と安倍首相のどちらが先にやめるかとの笑い話、あれは案外的を射ていたんだなあということ。

桑田は偉い!

 40歳を目前に、日本のプロ野球をお払い箱になった桑田真澄投手がメジャーリーグに挑戦、いいところまでいきながら審判にぶっつかって怪我をするという不幸に襲われたが、それを乗り越えてついに念願のメジャー昇格を達成したというニュース。
 桑田は偉い! がんばれ桑田!

 私は巨人ファンではなく桑田ファンでもありませんでしたが、渡米後の桑田には注目していました。日本のテレビでの日本人大リーガー情報の大氾濫にはうんざりしています。イチローはどちらかといえばきらいです。ゴジラ松井はきらいではありません。松坂ほかには関心はありません。

 桑田の野球人生は、高度成長で勢いに乗りバブル崩壊で借金王に転落し、苦境に耐えてグローバリゼーションの新しい環境に対応しようとする日本の現代史が反映しているように思えます。私たちとは完全に一世代違いますが、紛れもなく同時代を共有したという思い入れが私のほうにはあります。

 桑田くん、その調子で日本とアメリカの若者たちに日本人のいいところを見せてやってください。
 フレー、フレー 桑田! Hurray, hurray KUWATA!

あえて言葉尻を捕らえる

 松岡利勝農水大臣の自殺の衝撃で、政界発の「奇妙な言葉」が電波に乗って飛び交っています。

 まずは、安倍晋三内閣総理大臣の「慙愧に堪えない」発言。最初、テレビのインタビューでこれを聞いた時はびっくりしました。全く予想外の言葉で、「この人がそんなに深く反省することなどあるのか」と違和感を持ちましたが、その後の安倍氏の発言とこの言葉とはどうしても整合が取れません。あくる日の新聞には、「あれは言葉の誤用だろう」と出ていました。あれこれ真意を推しはかるよりも、ずばり、安倍氏の国語力の問題と考える方が妥当なのでしょう。

 松岡氏自殺の第一報を受けての石原慎太郎都知事のコメント。「死をもってつぐなった。彼はやはり侍だった」。異議あり。私は侍にはなんらの共感も抱きませんが、侍なら切腹の時には装束を改めるはずだとは思います。

 松岡氏の遺書の公表を拒んだ塩崎恭久官房長官の定例記者会見。「遺書というのはプライベートなものだ」と言い張りました。ここで問題になっているのは遺書一般ではありません。現職大臣が自殺するに際して残した遺書です。現職大臣の自殺は100パーセント、公的な事件です。これに関連した遺書を私的と言いくるめるのは「プライバシー重視」の風潮に乗じた責任回避です。

 これは余談ですが、マスコミは「戦後初の現職大臣」の自殺と繰り返しています。終戦時の阿南惟幾陸軍大臣の自殺は知っていましたが、戦前戦後を通じてそれ以外の現職大臣の自殺を私は知りません。どなたかご存知でしたら教えてください。戦前の大臣は天皇の大臣ですから、自殺はちょっと想像し難いのですが。

 本筋に戻ってもうひとつ。数日前に松岡氏と会食した鈴木宗男代議士の発言。国民に率直に謝罪したほうがいいとすすめる鈴木氏に対し、松岡氏は「今は黙っていた方がいいと国対からの、上からの指示なのです。それに従うしかないんです」と答えたといいます。自民党執行部がこれを全面否定するのは当然ですが、立ち会った第三者はいないのですから、これはしょせん水掛け論。ただ、こういうことが仮にあったとしても、そこから生じた葛藤が松岡氏を死に追い詰めたとは、私には信じがたい話です。いまのところ一番納得できるのは、松岡利勝氏は検察が自分を狙っていると考えた、それが引き金となったという仮説です。

「日本の悲劇」

 今日の午後、NHKのBS2でやっていた映画「日本の悲劇」を見ました。木下恵介脚本・監督、1953年の作品です。
 叙情性で知られた木下恵介が徹底してリアリズムで作った作品ということで話題になりました。私はこの映画は観たつもりだったのですが、今日観てみて観ていなかったことがはっきりと判りました。そして愕然としました。何に対してかというと自分の歴史感覚の不確かさについてです。

 今の日本では、家族も社会も政治も壊れている、すなわち人間が壊れてきているということがよく言われます。私もそういったことを言ってきました。そこまではまあいいとして、その堕落した現状との対照で、「昔はよかった」という、いつの時代にも幅を利かす「歴史観」がますますはびこっています。私自身にもそのきらいはあります。これは「加齢」のせいともいえますが。

 「日本の悲劇」が描く1950年代は、私にとってはとにかく青春でした。青春を特に美化する気持ちはありませんが。
 日本全体をみるなら、この時代は朝鮮戦争以後のいわゆる「逆コース」と「再軍備反対」がせめぎあう政治の季節でした。このせめぎあいを通じて「戦後民主主義」は定着して来たのだと思っています。私は大雑把に言って「戦後民主主義派」ですから、どうしても、1950年代を美化したがる傾向が出るのかもしれません。そこへ思い出を美しくする「加齢現象」が加わります。

 木下恵介さんのメッセージは半世紀後の私に痛烈に突き刺さりました。私が肯定的にとらえていた50年代の日本は十分に悲劇的でした。それを思い出すことが出来ました。この映画の最初と最後のシーンで流しの演歌師に扮した佐田啓二が「湯の町エレジー」を歌います。空前のヒット曲だったこの歌を当時の私たちは「退廃」と聴いていました。半世紀経つうちにその感覚が擦り切れて、この歌を「健全な」ナツメロと聴くようになっていた自分をちょっぴり反省しているところです。

 念のために申し添えますが、安倍晋三氏たちは「戦後民主主義」からの脱却を主張し、「美しい国」の原型を戦前日本に求めているようです。私はそれには組しません。木下恵介氏の描いた日本の悲劇は、アメリカ占領軍のせいでも日教組のせいでもありません。戦前・戦中の日本が秘めていたものが、敗戦の混乱で露呈した。その意味で、戦前戦後は継続していると思うのです。

あるわ、あるわの捏造番組、ニュース番組だって崖っぷち

 バラエティ番組に氾濫する情報の質というものは、昔の井戸端会議のそれ以上ではないと思うのですが、ニュース番組だって五十歩百歩です。
 昨日今日と各局はあの徳島の「崖っぷち犬」の飼い主が決まったというニュースを流しました。NHKニュースまでが同調していたのではなかったですかね。

 昔から「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースだ」と言われてきました。野良犬が崖に迷い込んで進退窮まったところで、それだけではニュースにはなりません。そこへテレビが駆けつけて全国向けの電波に乗せて、はじめてニュースとなったのです。捏造とは言わないまでもそれに近いやり方ではあります。

 そういえば、安倍内閣には広報担当の内閣総理大臣補佐官が置かれていますね。政府だけではありません。与党も野党も、誰をどう動かしてテレビ・クルーを呼び寄せるかに勝負をかけています。そして、カメラの前での台詞と振り付けに知恵を絞る人が増えてきました。

 教育再生を考える場合、玉石混交のテレビ情報のなかで玉と石を識別する能力を養うことこそ緊急の課題ではないでしょうか。


 

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