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  • 2009.01.17 Saturday
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雇用問題三題 第三話「雇用危機」は必然か

 ソニーは世界同時不況への対策として、主力のエレクトロニクス事業(液晶テレビ)などで、全世界約16万千人の従業員のうち1万6千人以上を09年度末までに削減する計画を発表しました。このことに関して同社の中鉢良治社長は12月16日、朝日新聞のインタビューに答えて次のような発言をしています。
 「経営の立場からは株主の期待にこたえよということ。問われているのは経営者が最善の努力をしたかどうかだ」
 「雇用を優先して損失を出すことが、私に期待されていることではない」

 これは、最近私の一番アタマに来た言葉の一つです。また、「ここまで言う時代になってしまったのか」との感慨もありました。

 御手洗日本経団連会長以下財界指導部のお歴々は、雇用確保への努力を求められるたびに、それには景気回復が前提になるとの「弁明」を繰り返しています。この大不況下では、首切りをしなければ企業を維持できず、景気回復もできない。景気が回復しなければ雇用の確保も拡大もできないというわけです。
 これは人間の意志を超えた「自然の法則」みたいなもので、いわば「必然」である。そのように思い込ませる論法が言論界の主流としてまかり通っている国は米国と日本だけのように私には思えます。しかも、日本でこの手の論法が幅をきかせるようになったのは、たかだか最近の10年、小泉・竹中時代以後のことに過ぎません。

 12月28日付朝日新聞のオピニオン欄「耕論」に、90年代に経済同友会専務理事の地位にあり、財界の代表的論客の一人であった品川正治さんの意見が載っています。その末尾は次のように締めくくられています。

 雇用の確保が成長を遅らせるという反論に対する答えはノーだ。家も借りられず結婚もできない若い労働者は、内需のマーケットから完全に除外されている。彼らの生活の再生産と将来設計を可能にする雇用の保障は、長い目でみて外需頼みから内需への転換を促す要素になるはずだ。
 経営者は本来、資本家のためだけではなく、従業員や代理店などすべての利害関係者のために仕事をするものだ。
 いま、職と家を失った非正規労働者の受け皿を、他の企業や自治体が用意する動きが急速に広がっている。彼らは人間の目で人間を見ている。あなたには見えますかと、経営者に聞くとよい。


 新自由主義の経済論を永遠不変の自然の法則であるかのように唱える議論は、米国にしか目を向けない日本人の陥りがちな視野狭窄です。人類の未来は金縛りの状態などではありません。それは人間がつくり出していく多様な可能性を孕んだ未来です。





雇用問題三題 第二話「非正規雇用」と「後期高齢者」

 この2つの言葉、語感が似ていると思いませんか。「ひせいキ」と「こうキ」、「コよウ」と「コウれい」。「非正規雇用」という語を誰が使い始めたのかは知りませんが、両方とも固く冷たいお役所言葉です。

 後期高齢者医療制度は、散々な不評で、あわてた政府は「長寿医療制度」という意味不明の通称を使い始めましたが、事の本質は何も変わっていません。国民みんなで支えるべき医療保険を、75歳で分断して意図的に世代間の対立を煽る手法。あまりにも古典的な「分割統治」。

 「正規雇用」と「非正規雇用」の区分の発生も、仕事を求める人たち、働く人たちの要望から出たものではないし、また彼らの自己責任に帰せられるべきものでもない。これこそ、市場至上主義派の狙う規制緩和の眼目、雇用契約において自由化を進めるということは、人間の労働力を、モノとまったく同様の商品として扱うことを意味します。ここでの「自由化」とは、人為的な規制を解消して、その事柄本来の姿に戻すことを意味するのではなくて、商品化される労働力から、その本来の担い手である人格を暴力的に引き剥がすことを意味します。それは経済発展の「自然」な過程などではなくて、国家の政策として推進される新しいレジームの創出なのです。

 そして現在起こっている「百年に一度」の経済危機は、20世紀末から金融資本の圧倒的支配の下で形成されてきた「新しいレジーム」が大破綻をみせているということなのです。
 今夜の寝る場所、明日の食べ物を心配する人たちのために手段を尽さなければならないのはもちろんですが、その一方で、この非人間的な「レジーム」を、不自然な人為的な制度とみなして、新たにやり直す(「ニューディール」)ことを考えるべきではないでしょうか。
 この点では、日本は世界でも最も遅れた国の一つになっているようです。

こども太鼓台2

雇用問題三題  第一話「恐怖」の暴風雨

 テレビも新聞も、連日のように「派遣切り」、「雇用打ち切り」、「人員大幅削減」、「住居追い出し」、「内定取り消し」と「雇用危機」の襲来を叫んでいます。それらは私たちの社会そのものが上げている悲鳴のように聞こえます。「労働組合」、「団体交渉」など、実に久し振りに聞く言葉もそれに混じります。労働者自身も行動を始めている。自治体にもNGOにも、休日・年末年始返上で対策に頑張っている人たちがいる。危機に立ち向かい、危機を切り裂いて、前途を照らすヘッドライトの光も、見え隠れはしています。しかし、それらを押しつぶすような大声が聞こえてくる。それは、トヨタ、キャノンなどをはじめとする大企業経営者、かねてから日本の経済・社会を指導する立場にあると自負する財界指導部の「大幅人員削減計画」、「解雇計画」、「内定取り消し」などの発表です。それらが多くの人々に与えるものは、「危機感」を通り越して「恐怖感」ともいえるのではないでしょうか。

 振り返って見れば90年代、「グローバルスタンダード」の名の下に「規制緩和」、「自由競争」、「自己責任」が強調されるようになり、出現したのは喧伝された「活気あふれる社会」などではなく、「勝ち組・負け組」社会。活性化したのは「勝ち組」にチャレンジ・再チャレンジ可能な比較的少数者だけで、多数者は「負け組」への転落の恐怖に縛られて自己を隠すようになりました。さらにその一部の人たちは自己を見失ってしまうところまでいきました。

 そしてこの2008年、アメリカが引き金を引いた金融危機はたちまち全世界に波及し、「100年に1度」といわれる経済危機を引き起こしています。ここで注目すべきは危機深化のスピードです。それは歴史上かつて見ない速さだと思います。情報化時代ですから、それにつれての「恐怖感」の激化も未曾有の速さです。仕事を求める人、仕事をする人に「恐怖感」を覆いかぶせて先手を取り、人々を諦めの「蟻地獄」に陥れようというのが歴史の悪意ではなかと疑いたくもなります。

 ひとりでは恐怖に勝てません。仲間と声を掛け合うこと、ともに歩き始めることからすべては始まるのではないでしょうか。
 私の好きな「織江の唄」(五木寛之作詩)の一節です。
  ばってんお金にゃ 勝てんもん
  そやけん 手紙くれんね 信介しゃん
  いつかどこかで…
 
 そうです。ここにお金に勝つ道がある。人間関係を壊すのがお金なら、お金に勝つには人間関係を作ることです。

太鼓台

テロルのかたち

 元厚生事務次官襲撃事件については多くの論評がなされている。さいたま市と中野区との事件が同一のテロであれば、という保留条件付ではあるが、その背景には社会に充満する年金改革、年金行政への反発・不満があるとする解説が、それこそ満ち溢れている。私はこのような言論界というか、マスメディアの姿勢に強く反発する。どんな時代にも政治に対する不満がないなどということはあり得ない。この姿勢ではテロの容認とまでは言わないが、受身の態度でしかない。
 今回の事件に対して、私がもっとも強く非難したいのは、犯人が何の躊躇もなく元次官の夫人たちを殺傷していることである。日本の場合をみても、少なくとも戦前戦中までは、テロリストが女性や子供を手にかけるということはなかったように思う。最近は、世界中で無差別テロが頻発しているが、今回の事件は「無差別」ではない。対象はちゃんと特定している。標的とする人物を、その家族をも含めて狙ったとみるべきだ。また、自爆テロの場合は、まだしも自己を犠牲に差し出している。今回の事件は、警戒の厳しい現役の政治家、官僚ではなく、防護の弱いところ、やり易いところを選んでいる。一種の「弱いもの苛め」ともいえる。その点では最近の「世間の風潮」に乗っかっている面もある。
 今回の事件をテロルであるとするなら、―私は、それでほぼ間違いないと思っているが―今回のテロリストには一片の倫理も人間としての誇りもない。したがって、その心情にも行為にも、人々の共感を呼ぶ側面はきわめて乏しい。テロリズムを、何らかの政治的目的を目指しての手段(許されない手段)と定義するなら、今回の事件は、「何らかの目的の達成」は最初から視野にないということである。そこにあるのは、「社会の破壊」だけである。私たちの社会は、その内部に自らを破壊する要素を生み出し始めたということである。それも無視して過ごすわけにはいかない頻度でである。

金融危機・株式暴落でひどい目にあうのは誰?

 ほとんどすべての人たちが、これは大変なことになったと思っているはずです。第一にメディアが、大変だ、大変だと騒ぎ立てる影響があります。それでも、投資家や経営者以外の人たちの実感としては、まえまえから進行している石油や食料品の値上げ、年金、医療などに対する不安が問題なのであって、今のところ、米国発の「金融危機」を自分自身に襲い掛かってくるものとは受け止めていないと思います。

 しかし、少し考えてみると、これはどうも、そんなことでは済みそうもありません。進行する物価高、円高のなかで内需も輸出も縮小し、日本経済が深刻な不況に陥ることは目に見えています。そこから出てくるのは、雇用と家計消費の悪化。公的援助がより必要とされる事態になって追い討ちをかけるのは社会保障費のいっそうの削減です。教育費もさらにカットされて精神主義が強調されるでしょう。

 古い話になりますが、終戦時の「一億總懺悔」と言葉を思い出します。終戦直後に皇族内閣を組織した東久邇宮首相の言葉ですが、敗戦の責任を全国民に分散しようという考え方です。
 リスクの分散は現在の市場経済社会の得意技です。サブプライムローンの手法はその典型的な例ですね。

 リスクの分散と表裏一体の関係にあるのが利益の独占です。小泉純一郎氏は「改革なくして成長なし」と叫び、日本経済が成長を回復したのちも資本優遇、弱者切り捨ての政策を継続しました。その結果、数年前に公的資金による援助を受けた大銀行は、いまや危機的状況にある米国の巨大証券会社に救いの手を差し伸べるまでに利益を蓄積したのに対し、庶民生活にまでは好況の果実はついに波及しませんでした。好況になっても生活は一向に楽にならないまま不況に突入してしまったのです。これは今回たまたま時間切れでこうなったというような性質のものではなく、20世紀末型・米英型自己責任社会の構造そのものだと思います。

 だからといって、政治に何も期待しないのではありません。この重大な危機にあたってできるだけの手は打って貰わなくては困ります。これから政府・与党で検討を始めようとしている総選挙対策のようなものではどうにもなりません。解散・総選挙をにらんでの不毛な駆け引きは早く切り上げて、総選挙を早く行い、「政界再編成」を済ませて強力な内閣を組織し、年内に思い切った政策を打ち出すことが必要です。被害を最小限に食い止めるにはそれしかありません。


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