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  • 2009.01.17 Saturday
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日本人の政治意識の変化

 麻生内閣は、絵に描いたように「野垂れ死」へのコースを辿っています。こうなるにはいろいろな要因が働いているでしょうが、なかでも「定額給付金」問題は致命傷というか、ボディブローというか、非常に効いています。趣旨が不明確とか、解散総選挙への下心が見え見えとか、首相の発言のブレとかいろいろありますが、実は私はこれがこんなに大問題になるとは思っていませんでした。しかし、これは私の認識不足でした。

 最近になって気付いたのですが、政治家や官僚の大多数は、口先ではともかく、本心では、政府のお金を国民のお金とは思っていない、自分たちのものだと思っているのです。これは昔からそうです。
 国民のものではないお金を、ゲンナマで1人1万2千円ずつ配ってやるのだから、みんな喜ばないはずはないと、推進派の連中は考えたのでしょう。
 ところが、一昔前とは違って、いまの日本国民の大多数は、政府のお金は自分たちのお金だ。もう役人や政治家の勝手にはさせないぞと思っている。今回の定額給付金も、麻生太郎が国民のお金を自分のもののように勘違いして、恩着せがましく扱っている。そのやり方が先ず、気に入らないのです。

 小泉内閣が「小さい政府」論を強行し、官僚バッシングを繰り返す中で、それに対応して日本人の政治意識は確実に変わりました。これは小泉政治のプラスの遺産だと私は考えています。

あけまして おめでとう ございます

南天

雇用問題三題 第三話「雇用危機」は必然か

 ソニーは世界同時不況への対策として、主力のエレクトロニクス事業(液晶テレビ)などで、全世界約16万千人の従業員のうち1万6千人以上を09年度末までに削減する計画を発表しました。このことに関して同社の中鉢良治社長は12月16日、朝日新聞のインタビューに答えて次のような発言をしています。
 「経営の立場からは株主の期待にこたえよということ。問われているのは経営者が最善の努力をしたかどうかだ」
 「雇用を優先して損失を出すことが、私に期待されていることではない」

 これは、最近私の一番アタマに来た言葉の一つです。また、「ここまで言う時代になってしまったのか」との感慨もありました。

 御手洗日本経団連会長以下財界指導部のお歴々は、雇用確保への努力を求められるたびに、それには景気回復が前提になるとの「弁明」を繰り返しています。この大不況下では、首切りをしなければ企業を維持できず、景気回復もできない。景気が回復しなければ雇用の確保も拡大もできないというわけです。
 これは人間の意志を超えた「自然の法則」みたいなもので、いわば「必然」である。そのように思い込ませる論法が言論界の主流としてまかり通っている国は米国と日本だけのように私には思えます。しかも、日本でこの手の論法が幅をきかせるようになったのは、たかだか最近の10年、小泉・竹中時代以後のことに過ぎません。

 12月28日付朝日新聞のオピニオン欄「耕論」に、90年代に経済同友会専務理事の地位にあり、財界の代表的論客の一人であった品川正治さんの意見が載っています。その末尾は次のように締めくくられています。

 雇用の確保が成長を遅らせるという反論に対する答えはノーだ。家も借りられず結婚もできない若い労働者は、内需のマーケットから完全に除外されている。彼らの生活の再生産と将来設計を可能にする雇用の保障は、長い目でみて外需頼みから内需への転換を促す要素になるはずだ。
 経営者は本来、資本家のためだけではなく、従業員や代理店などすべての利害関係者のために仕事をするものだ。
 いま、職と家を失った非正規労働者の受け皿を、他の企業や自治体が用意する動きが急速に広がっている。彼らは人間の目で人間を見ている。あなたには見えますかと、経営者に聞くとよい。


 新自由主義の経済論を永遠不変の自然の法則であるかのように唱える議論は、米国にしか目を向けない日本人の陥りがちな視野狭窄です。人類の未来は金縛りの状態などではありません。それは人間がつくり出していく多様な可能性を孕んだ未来です。





雇用問題三題 第二話「非正規雇用」と「後期高齢者」

 この2つの言葉、語感が似ていると思いませんか。「ひせいキ」と「こうキ」、「コよウ」と「コウれい」。「非正規雇用」という語を誰が使い始めたのかは知りませんが、両方とも固く冷たいお役所言葉です。

 後期高齢者医療制度は、散々な不評で、あわてた政府は「長寿医療制度」という意味不明の通称を使い始めましたが、事の本質は何も変わっていません。国民みんなで支えるべき医療保険を、75歳で分断して意図的に世代間の対立を煽る手法。あまりにも古典的な「分割統治」。

 「正規雇用」と「非正規雇用」の区分の発生も、仕事を求める人たち、働く人たちの要望から出たものではないし、また彼らの自己責任に帰せられるべきものでもない。これこそ、市場至上主義派の狙う規制緩和の眼目、雇用契約において自由化を進めるということは、人間の労働力を、モノとまったく同様の商品として扱うことを意味します。ここでの「自由化」とは、人為的な規制を解消して、その事柄本来の姿に戻すことを意味するのではなくて、商品化される労働力から、その本来の担い手である人格を暴力的に引き剥がすことを意味します。それは経済発展の「自然」な過程などではなくて、国家の政策として推進される新しいレジームの創出なのです。

 そして現在起こっている「百年に一度」の経済危機は、20世紀末から金融資本の圧倒的支配の下で形成されてきた「新しいレジーム」が大破綻をみせているということなのです。
 今夜の寝る場所、明日の食べ物を心配する人たちのために手段を尽さなければならないのはもちろんですが、その一方で、この非人間的な「レジーム」を、不自然な人為的な制度とみなして、新たにやり直す(「ニューディール」)ことを考えるべきではないでしょうか。
 この点では、日本は世界でも最も遅れた国の一つになっているようです。

こども太鼓台2

雇用問題三題  第一話「恐怖」の暴風雨

 テレビも新聞も、連日のように「派遣切り」、「雇用打ち切り」、「人員大幅削減」、「住居追い出し」、「内定取り消し」と「雇用危機」の襲来を叫んでいます。それらは私たちの社会そのものが上げている悲鳴のように聞こえます。「労働組合」、「団体交渉」など、実に久し振りに聞く言葉もそれに混じります。労働者自身も行動を始めている。自治体にもNGOにも、休日・年末年始返上で対策に頑張っている人たちがいる。危機に立ち向かい、危機を切り裂いて、前途を照らすヘッドライトの光も、見え隠れはしています。しかし、それらを押しつぶすような大声が聞こえてくる。それは、トヨタ、キャノンなどをはじめとする大企業経営者、かねてから日本の経済・社会を指導する立場にあると自負する財界指導部の「大幅人員削減計画」、「解雇計画」、「内定取り消し」などの発表です。それらが多くの人々に与えるものは、「危機感」を通り越して「恐怖感」ともいえるのではないでしょうか。

 振り返って見れば90年代、「グローバルスタンダード」の名の下に「規制緩和」、「自由競争」、「自己責任」が強調されるようになり、出現したのは喧伝された「活気あふれる社会」などではなく、「勝ち組・負け組」社会。活性化したのは「勝ち組」にチャレンジ・再チャレンジ可能な比較的少数者だけで、多数者は「負け組」への転落の恐怖に縛られて自己を隠すようになりました。さらにその一部の人たちは自己を見失ってしまうところまでいきました。

 そしてこの2008年、アメリカが引き金を引いた金融危機はたちまち全世界に波及し、「100年に1度」といわれる経済危機を引き起こしています。ここで注目すべきは危機深化のスピードです。それは歴史上かつて見ない速さだと思います。情報化時代ですから、それにつれての「恐怖感」の激化も未曾有の速さです。仕事を求める人、仕事をする人に「恐怖感」を覆いかぶせて先手を取り、人々を諦めの「蟻地獄」に陥れようというのが歴史の悪意ではなかと疑いたくもなります。

 ひとりでは恐怖に勝てません。仲間と声を掛け合うこと、ともに歩き始めることからすべては始まるのではないでしょうか。
 私の好きな「織江の唄」(五木寛之作詩)の一節です。
  ばってんお金にゃ 勝てんもん
  そやけん 手紙くれんね 信介しゃん
  いつかどこかで…
 
 そうです。ここにお金に勝つ道がある。人間関係を壊すのがお金なら、お金に勝つには人間関係を作ることです。

太鼓台

ふるさとの山

中蓮寺峰

 ふるさとの山に向かいて
 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな

 かにかくに澁民村は戀しかり
 おもひでの山
 おもひでの川

 かなしきは小樽の町よ
 歌ふことなき人人の
 聲の荒さよ

   石川啄木「一握の砂」より

12月8日からの連想

 68回目の12月8日がやってきました。

 臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。
 大本営陸海軍部午前六時発表―― 帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。

 昭和16年12月8日午前7時に発せられた日本放送協会の臨時ニュースです。あれから67年経ったということです。当時、私の家にはラジオはありませんでした。私の村では、役場、学校、駐在所などを除くと、一般家庭でラジオを持っていた家は数えるほどしかありませんでした。だから僕たちは学校へ行って授業が始まってから、臨時の集会が寒い運動場で開かれて、校長先生からそのことを聞きました。明確な記憶はありませんが、やはり「戦争だ!」という気分になったと思います。日中戦争は昭和12年の盧溝橋事件から数えても、すでに4年以上を経過していたにもかかわらずです。

 今年は、前空幕長、田母神俊雄氏の言動があの時代の雰囲気を思い出させてくれました。田母神問題に関連して、私が一番気にしているのは、軍のトップリーダー層における、目を覆いたくなるほどの知性と教養の欠如です。今流行の言葉で言えば、品格がないのですね。そして、これが特定の個人の問題にとどまらず、時代の風潮となっている点に非常な危険性を感じるのです。知性、教養を無視し、反発し、攻撃し、時には辱めてみせる風潮です。そのようなパフォーマンスに対して沸き起こる拍手喝采。無責任な匿名言論の暴走。行き着く先は暴力への幻想でしかないではないでは?

 先日たまたま観ていたテレビが、最後の海軍大将・井上成美氏を取り上げ、彼が軍の幹部の教育に何よりも「教養」を重視していたと述べていました。
 私は今、田母神俊雄氏と井上成美氏の写真を見比べて、「男は40歳を過ぎれば自分の顔に責任がある」というリンカーンの言葉を思い出しています。

田母神-井上

ひとり立つ

平井小のイチョウ

 一昨12月6日。寒い土曜日でした。午後にちょっと外出しただけで震え上がりました。
 木枯らしのなか、ひとり立つ公孫樹。その自然体に惹かれました。
 

小泉毅という人物

 前回のブログ「テロルのかたち」で私は、元厚生事務次官襲撃事件は政治的テロルとみて、ほぼ間違いないだろうと書いた。それをアップしたちょうどそのころ、事件の下手人を自称する人物は、自首すべく警視庁のあたりまで出かけていたことになる。この出頭で、事件が「政治的テロル」であるとは言い切れなくなったが、それでも謎はかえって深まったように思う。
 彼、小泉毅の陳述や、彼が残している「証拠物件」は彼が捜査当局や社会に向けて意図的に発している「操作された情報」であって、そのままで「事実」を表しているとは考えないほうがいい。慎重な吟味が必要なことは言うまでもない。
 そういうことで、今のところ、著しく情報が不足しているので、あやふやなことしか言えないが、私は名乗り出た小泉毅という人物について、以下のように見ている。

 その主な根拠は、写真でみる彼の「面構え」である。四十歳を過ぎた男は自分の顔に責任があるといわれるが、彼の「面構え」が少年時代とは一変していることは、高校までの同級生たちが証言するところである。どちらかといえばおとなしい性格だったとも言われている。したがってあの顔は、20歳代以後の不安定な生活の積み重ねの中で、彼自身が「辛苦」の挙句作り上げてきたものであろう。あの顔は、孤独な「引きこもり」で作れるものではない。またネットなどバーチャルな世界に比重をかけた生活の中でも作れはしない。
 あの種の顔は、たとえば「やくざ」など、独特な社会関係の中で形成されるのが普通である。であるから、彼は、歪んだ形ではあっても社会生活の中にちゃんと入り込んでいたと見るべきである。その点で彼は、社会に入れないであがいていた秋葉原事件その他の無差別殺人事件の犯人たちとはまったく異質である。
 であるなら、彼を取り巻く人間関係が解明されないかぎり、事件の実相は不明のままに終わるだろう。

 付言するなら、小泉毅の「自首」は入念に準備され工作されている疑いが濃い。そのために必要な時間的余裕は十分だった。故郷の父親への電話、手紙などももちろん取材・捜査の対象になることを予想してのものだろう。取り揃えられた「証拠物件」の中には、事後に作られたものもあるかもしれない。秘匿すべき証拠は、破壊されるなりなんなり、とにかく処分されているはずだ。家宅捜索で出てきた物件は彼が提供したいと望んだものであろう。もちろん、その死角に入っていたモノを発見しようと捜査当局は頑張るだろうが、多くのものは期待できない。

テロルのかたち

 元厚生事務次官襲撃事件については多くの論評がなされている。さいたま市と中野区との事件が同一のテロであれば、という保留条件付ではあるが、その背景には社会に充満する年金改革、年金行政への反発・不満があるとする解説が、それこそ満ち溢れている。私はこのような言論界というか、マスメディアの姿勢に強く反発する。どんな時代にも政治に対する不満がないなどということはあり得ない。この姿勢ではテロの容認とまでは言わないが、受身の態度でしかない。
 今回の事件に対して、私がもっとも強く非難したいのは、犯人が何の躊躇もなく元次官の夫人たちを殺傷していることである。日本の場合をみても、少なくとも戦前戦中までは、テロリストが女性や子供を手にかけるということはなかったように思う。最近は、世界中で無差別テロが頻発しているが、今回の事件は「無差別」ではない。対象はちゃんと特定している。標的とする人物を、その家族をも含めて狙ったとみるべきだ。また、自爆テロの場合は、まだしも自己を犠牲に差し出している。今回の事件は、警戒の厳しい現役の政治家、官僚ではなく、防護の弱いところ、やり易いところを選んでいる。一種の「弱いもの苛め」ともいえる。その点では最近の「世間の風潮」に乗っかっている面もある。
 今回の事件をテロルであるとするなら、―私は、それでほぼ間違いないと思っているが―今回のテロリストには一片の倫理も人間としての誇りもない。したがって、その心情にも行為にも、人々の共感を呼ぶ側面はきわめて乏しい。テロリズムを、何らかの政治的目的を目指しての手段(許されない手段)と定義するなら、今回の事件は、「何らかの目的の達成」は最初から視野にないということである。そこにあるのは、「社会の破壊」だけである。私たちの社会は、その内部に自らを破壊する要素を生み出し始めたということである。それも無視して過ごすわけにはいかない頻度でである。

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